文学散歩(1) 本郷〜菊坂界隈
本郷の菊坂の周りに散在する、文豪ゆかりの地を訪ねてみましょう。
まず、東京メトロまたは都営大江戸線「本郷三丁目」で降り、本郷三丁目の交差点に出ると、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と川柳にうたわれたかねやすのビルが角にあります。江戸もこの店あたりまでは繁華な様子でしたが、ここをはずれると武家屋敷や寺が多くなり、寂しい雰囲気になることから先の川柳が作られたようです。
享保年間に、口中医師(=歯医者)の兼康祐悦(かねやすゆうえつ)が乳香散という歯磨きを売り始めたのが、この店のはじまりで、小間物屋も兼ねていました。明治の中ごろには樋口一葉も「…かね安にて小間ものをととのう…」と書いているように、ここで買い物をしました。
かねやす向かいの三原堂の隣に、藤むらというようかんで有名な店があります。一葉が恋した半井桃水に小説の手解きを受け始めの頃、ここで和菓子を買ったといいますが、現在は休業中。 また、夏目漱石もここのようかんを好んだようで、『吾輩は猫である』にも書いています。「…この菓子はいつもより上等じゃないか、と藤村の羊羹を無雑作に頬張る」
本郷通りを東大に向かって渡るとすぐ左手に、文京センターがあります。江戸時代、ここに別れの橋があって、江戸追放者がここで放たれたそうです。南側を見送り坂、北側を見返り坂といいます。文京センターの角を曲がって菊坂に入りましょう。
少しいくと四つ角になるので、その右手の坂を上ります。この坂は本妙寺坂といいます。明治44年に巣鴨に移ってしまいましたが、以前ここに本妙寺というお寺がありました。ここが、「振り袖火事」といわれる明暦の大火(1657年)の火元と言われているところです。
菊坂に戻って少し下ると、菊富士ホテル跡があります。今は(株)オルガノ(本郷5-5)になっています。大正3年に開業したこの高級下宿は、地上3階地下1階の洋風建物で50もの客室があったと言われます。宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、正宗白鳥、大杉栄、竹久夢二、坂口安吾など多くの文士や政治家、学者などが滞在した所です。ホテルの経営者と縁続きだった近藤富枝が「本郷菊富士ホテル」に当時の様子を詳しく書いています。
同じ敷地内(本郷5-5)には、明治41年に石川啄木が初めて上京したとき、金田一京助と同宿した赤心館もありました。
菊坂から本郷4丁目の31番と32番の表示のある間の露地を入ると、菊坂でも一番低い「菊坂下町」と呼ばれた所に入ります。ここは樋口一葉が住んだことで知られ、奥にある井戸(当時はつるべ井戸)は一葉も使ったものといわれています。菊坂の一葉旧居跡は向かい合うように2つあります。明治23年に住んだのは、路地を入ってポンプの左側の家。明治25年日には、一部屋多いからとポンプの右側の家に移りました。当時の一葉は私塾「萩の舎」に通うかたわら、戸主として着物の仕立てなどで生計を支えていました。処女作『闇桜』などを書いた所でもあります。

ポンプの先の階段を上って路地を進むと、鐙(あぶみ)坂に出ます。一葉は明治24年の日記で、お茶の水橋の開通を見に行くとき、ここを通ったと書いています。
一葉の借家からは裏山にあたる現在の清和公園は当時は右京山と呼ばれていました。一葉もよく来たらしく、日記にも何回も出てきます。
旧居跡を過ぎてすぐの小道を右へ入ると、階段があります。これが炭団坂で、上りきったところに坪内逍遥の旧居跡があります。
菊坂に戻り、坂の出口近くに一葉が通った伊勢屋質店があります。現在は廃業していますが、土蔵はそのまま残り、当時を偲ばせます。
その少し奥には、木下順二の生家跡があります(本郷5-10-8)。
現在は天理教の教会となっています。
菊坂を抜けて白山通りの方に向かうと、通りに出る手前右側に、谷崎潤一郎が一時期住んでいた所があります。潤一郎は、この後、菊富士ホテルにも滞在しました。
白山通りに出て白山駅方面に向かうと、興陽社ビルがあります。樋口一葉はこの後ろの崖上(本郷丸山福山町4番地)に明治27年、23才のときに引っ越してきました。『暗夜』、『おおつごもり』、『たけくらべ』、『にごりえ』などを精力的に発表しましたが、明治29年に24才で亡くなってしまいました。現在は、一葉終焉の地として記念碑がたてられています。また、この家には後に夏目漱石の弟子、森田草平も住んだことがあるそうです。
今回たどった道とスポットについては、こちらの地図をご覧ください。

享保年間に、口中医師(=歯医者)の兼康祐悦(かねやすゆうえつ)が乳香散という歯磨きを売り始めたのが、この店のはじまりで、小間物屋も兼ねていました。明治の中ごろには樋口一葉も「…かね安にて小間ものをととのう…」と書いているように、ここで買い物をしました。
かねやす向かいの三原堂の隣に、藤むらというようかんで有名な店があります。一葉が恋した半井桃水に小説の手解きを受け始めの頃、ここで和菓子を買ったといいますが、現在は休業中。 また、夏目漱石もここのようかんを好んだようで、『吾輩は猫である』にも書いています。「…この菓子はいつもより上等じゃないか、と藤村の羊羹を無雑作に頬張る」
本郷通りを東大に向かって渡るとすぐ左手に、文京センターがあります。江戸時代、ここに別れの橋があって、江戸追放者がここで放たれたそうです。南側を見送り坂、北側を見返り坂といいます。文京センターの角を曲がって菊坂に入りましょう。
少しいくと四つ角になるので、その右手の坂を上ります。この坂は本妙寺坂といいます。明治44年に巣鴨に移ってしまいましたが、以前ここに本妙寺というお寺がありました。ここが、「振り袖火事」といわれる明暦の大火(1657年)の火元と言われているところです。

同じ敷地内(本郷5-5)には、明治41年に石川啄木が初めて上京したとき、金田一京助と同宿した赤心館もありました。


ポンプの先の階段を上って路地を進むと、鐙(あぶみ)坂に出ます。一葉は明治24年の日記で、お茶の水橋の開通を見に行くとき、ここを通ったと書いています。
一葉の借家からは裏山にあたる現在の清和公園は当時は右京山と呼ばれていました。一葉もよく来たらしく、日記にも何回も出てきます。
旧居跡を過ぎてすぐの小道を右へ入ると、階段があります。これが炭団坂で、上りきったところに坪内逍遥の旧居跡があります。

その少し奥には、木下順二の生家跡があります(本郷5-10-8)。
現在は天理教の教会となっています。
菊坂を抜けて白山通りの方に向かうと、通りに出る手前右側に、谷崎潤一郎が一時期住んでいた所があります。潤一郎は、この後、菊富士ホテルにも滞在しました。

今回たどった道とスポットについては、こちらの地図をご覧ください。