文京区の歴史
人間が現在の文京の地に住み始めたのは、約1 万8,000 年前の旧石器時代とされています。
文京区内では、約1 万年以前に始まる縄文時代の遺跡が28 か所確認され、
本郷台地の周辺からは、貝塚と縄文土器の破片が数多く発見されています。
明治17 年(1884)に区内の旧弥生町から出土した土器は、日本考古学史上の大発見で、
「弥生式土器」「弥生時代」という名がつけられました。
鎌倉時代までは文京区はまだ原野に近く、武蔵国豊島郡の湯島郷・日頭郷(小日向郷)と
呼ばれる集落があるだけの寒村でした。
中世になると、上杉氏の支配のもとに、太田氏、豊島氏など豪族の勢力の接点にありました。
その後、後北条氏の支配地となりました。当時の文書に、駒込、小日向、小石川、本郷、湯島などの地名がみられ、農村として徐々に発展したことがわかります。
江戸時代の初めには文京の地に大名屋敷、武家屋敷が置かれ、伝通院、護国寺、根津神社
などの寺社が創建され、また、多くの寺社が転入して、町が作られていきました。
元禄時代の国絵図には、駒込村と小石川村だけが村と記され、そのほかは、
小日向町、金杉水道町、関口水道町のように町になっています。
江戸の拡大発展とともに、江戸時代の中ごろには文京の地は市街地化していたようです。
江戸時代の文京区における商業の特色は、
湯島・本郷の街道商業
板橋宿へ通じる中山道筋の武家屋敷の片側に形成された町人町(片町)商業
白山、根津など寺社の門前町商業の発展
江戸時代には、文京区内の大半が武家地によって占められていたため、
町人町の拡大は広大な武家地によって妨げられていました。
明治時代になると、広大な武家屋敷の跡地は大学などの教育機関や軍用に転用されます。
文京区には幕府の官学の府ともいうべき、湯島聖堂、昌平坂学問所がありました。
昌平坂学問所跡に師範学校、女子師範学校が設立され、東京大学が現在地に移転し、
文教の地、文京の特色を鮮明にしていきます。
一方、水戸徳川家の上屋敷内の庭園が現在の小石川後楽園となり、
甲府の柳沢家の下屋敷庭園が六義園となるなど、貴重な緑地を今に残しています。
明治11 年には、郡区町村編成法によって、文京区の前身、小石川・本郷両区が誕生しました。
文京区には旧大名屋敷・寺社・田畑が多く残っていたほか、多くの学校が設立されました。
これとともに、逍遥、鴎外、漱石、一葉など、多くの文人が住み、数々の名作を著しています。
第一次世界大戦後は、印刷、製本業、医療機器製造の密集地域になりました。 東京大学のある本郷の地には、明治末から旅館や下宿屋が軒を並べ、 昭和3 年には旅館の数は120軒を数えました。今日でも旅館業は、本郷の特色の一つです。 昭和12 年に東京砲兵工廠の跡地に、3 万人を収容する後楽園スタジアム(現・東京ドーム)が野球場として誕生しました。
第二次大戦後の市街地再編成で小石川、本郷両区が合併し、文京区が誕生しました。
戦災で区内の相当部分を焼失しましたが、さまざまな困難を克服して、戦前より以上に復興しています。
現在では、「文の京」として、豊かで生き生きした町づくりをめざしています。
文京区内では、約1 万年以前に始まる縄文時代の遺跡が28 か所確認され、
本郷台地の周辺からは、貝塚と縄文土器の破片が数多く発見されています。
明治17 年(1884)に区内の旧弥生町から出土した土器は、日本考古学史上の大発見で、
「弥生式土器」「弥生時代」という名がつけられました。
鎌倉時代までは文京区はまだ原野に近く、武蔵国豊島郡の湯島郷・日頭郷(小日向郷)と
呼ばれる集落があるだけの寒村でした。
中世になると、上杉氏の支配のもとに、太田氏、豊島氏など豪族の勢力の接点にありました。
その後、後北条氏の支配地となりました。当時の文書に、駒込、小日向、小石川、本郷、湯島などの地名がみられ、農村として徐々に発展したことがわかります。
江戸時代の初めには文京の地に大名屋敷、武家屋敷が置かれ、伝通院、護国寺、根津神社
などの寺社が創建され、また、多くの寺社が転入して、町が作られていきました。
元禄時代の国絵図には、駒込村と小石川村だけが村と記され、そのほかは、
小日向町、金杉水道町、関口水道町のように町になっています。
江戸の拡大発展とともに、江戸時代の中ごろには文京の地は市街地化していたようです。
江戸時代の文京区における商業の特色は、
湯島・本郷の街道商業
板橋宿へ通じる中山道筋の武家屋敷の片側に形成された町人町(片町)商業
白山、根津など寺社の門前町商業の発展
江戸時代には、文京区内の大半が武家地によって占められていたため、
町人町の拡大は広大な武家地によって妨げられていました。
明治時代になると、広大な武家屋敷の跡地は大学などの教育機関や軍用に転用されます。
文京区には幕府の官学の府ともいうべき、湯島聖堂、昌平坂学問所がありました。
昌平坂学問所跡に師範学校、女子師範学校が設立され、東京大学が現在地に移転し、
文教の地、文京の特色を鮮明にしていきます。
一方、水戸徳川家の上屋敷内の庭園が現在の小石川後楽園となり、
甲府の柳沢家の下屋敷庭園が六義園となるなど、貴重な緑地を今に残しています。
明治11 年には、郡区町村編成法によって、文京区の前身、小石川・本郷両区が誕生しました。
文京区には旧大名屋敷・寺社・田畑が多く残っていたほか、多くの学校が設立されました。
これとともに、逍遥、鴎外、漱石、一葉など、多くの文人が住み、数々の名作を著しています。
第一次世界大戦後は、印刷、製本業、医療機器製造の密集地域になりました。 東京大学のある本郷の地には、明治末から旅館や下宿屋が軒を並べ、 昭和3 年には旅館の数は120軒を数えました。今日でも旅館業は、本郷の特色の一つです。 昭和12 年に東京砲兵工廠の跡地に、3 万人を収容する後楽園スタジアム(現・東京ドーム)が野球場として誕生しました。
第二次大戦後の市街地再編成で小石川、本郷両区が合併し、文京区が誕生しました。
戦災で区内の相当部分を焼失しましたが、さまざまな困難を克服して、戦前より以上に復興しています。
現在では、「文の京」として、豊かで生き生きした町づくりをめざしています。