樋口一葉
1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年11月23日(明治29年)
本名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。
一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものといわれる。
中島歌子の歌塾「萩の舎」で歌や古典を学ぶ。父の死後17歳にして戸主となり、針仕事などで母と妹の三人の生活を支える。小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、処女作を発表。生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが半年後には閉店。この時の経験が「たけくらべ」の題材となった。本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居して執筆を継続した。現在読み継がれている一葉の小説の大半はここで書かれたものである。文壇から絶賛されたが、1896年11月23日に肺結核のため25歳で死去。
2004年11月より、日本銀行券の五千円札の肖像に採用された。(日本銀行券としては女性初)
本名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。
一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものといわれる。
中島歌子の歌塾「萩の舎」で歌や古典を学ぶ。父の死後17歳にして戸主となり、針仕事などで母と妹の三人の生活を支える。小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、処女作を発表。生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが半年後には閉店。この時の経験が「たけくらべ」の題材となった。本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居して執筆を継続した。現在読み継がれている一葉の小説の大半はここで書かれたものである。文壇から絶賛されたが、1896年11月23日に肺結核のため25歳で死去。
2004年11月より、日本銀行券の五千円札の肖像に採用された。(日本銀行券としては女性初)
樋口一葉の代表作
『大つごもり』 | (1894年) | 『にごりえ』 | (1895年) | |
『たけくらべ』 | (1895年) | 『十三夜』 | (1895年) |
樋口一葉と文京区
一葉の一家は明治9年に法真寺(文京区本郷5-27-11)の左隣に居を移し、5年間住んだ。この時代が樋口家では最も安定した時であった。父の死後、明治23年18才のときに本郷菊坂町70番地(現:本郷4-32・31)に移り、3年間住む。一葉の家は残っていないが、使った井戸(←)はあり、当時を偲ぶことができる。明治27年竜泉寺の家から本郷丸山福山町4(現:西片1-17-17)に転居し、亡くなるまでの14か月間に代表作とされる小説を発表した。
幼少の頃に住んだ法真寺では、毎年11月23日に文京一葉忌が催される。また、境内には文京一葉会館があり、一葉関係の資料を収集、展示している。
幼少の頃に住んだ法真寺では、毎年11月23日に文京一葉忌が催される。また、境内には文京一葉会館があり、一葉関係の資料を収集、展示している。
樋口一葉の作品に見られる文京区
法真寺 (本郷)
一葉が4歳から10歳まで住んだ家が法真寺(東大赤門前)の東側にありました。その家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいます。一葉の短い一生で、もっとも幸せな時期でした。
「上杉の隣家は何宗かの御寺さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ごろもの観音さま・・・・」 『ゆく雲』
安藤坂 (小石川)
一葉は14歳で小石川の安藤坂にあった歌塾「萩の舎」に入門し、和歌と古典の勉強に励みました。後に菊坂に引っ越したのには、この塾に通いやすいということもありました。
かねやす (本郷)
享保年間に、口中医師(=歯医者)の兼康祐悦(かねやすゆうえつ)が乳香散という歯磨きを売り始めたのが、この店のはじまりで、小間物屋も兼ねていました。明治の中ごろには樋口一葉も「…かね安にて小間ものをととのう…」と書いているように、ここで買い物をしました。
鐙坂 (本郷)
「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行みんは」など国子にいざなはれて、母君も、「みてこ」などの給ふに、家をば出ぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月さしのぼりぬ。軒ばもつちも、ただ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし」 『蓬生日記』一
右京山 (本郷)
現在は清和公園となっているところは、かつて右京山と呼ばれていました。一葉もここをよく訪れていたようで、日記にそのことが書かれています。
(明治二五年九月)「一八日 晴天。……夕暮より国子と共に散歩(そぞろあるき)をなす。右京山に虫を聞きて、夫(それ)より田町通り、本郷の台にのぼりて、大学前あたりを遊びて帰る」 『につ記』
(明治二六年一月)「二九日 暁より雪降る。……夜いたう更けて、雨だりのおとの聞ゆるは、雪のとくるにやと、ねやの戸をして見出せば、庭もまがきもただしろがねの砂子をしきたるやうにきらきら敷(しく)、見渡しの右京山ただここもとに浮出たらん様にて、夜目ともいはずいとしるく見ゆるは、月に成ぬる成るべし」 『よもぎふにつ記』
(明治二六年五月)「七日 晴天。……此夜、母君と共に右京山に烟火(はなび)見る。九段の祭にて、ここよりよく見ゆればなり」 『蓬生日記』
伊勢屋質店 (本郷)
一葉はこの質屋によく通い、彼女の葬式には店主が香典をもってきたといいます。
「夕刻より着類三つよつもちて、本郷の伊せ屋がもとに
ゆく。4円50銭かり来る」 明治26年8月6日の日記
福山町 (西片)
一葉は晩年を本郷丸山福山町4(現:西片1-17-17)に住み、精力的に小説を書きました。当時、そのあたりは銘酒屋(私娼宿)が多く、一葉は私娼宿の遊女の手紙を代書することもありました。『にごりえ』の舞台はこのあたりがモデルだとされています。(← 一葉終焉の地)
一葉が4歳から10歳まで住んだ家が法真寺(東大赤門前)の東側にありました。その家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいます。一葉の短い一生で、もっとも幸せな時期でした。
「上杉の隣家は何宗かの御寺さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ごろもの観音さま・・・・」 『ゆく雲』
安藤坂 (小石川)
一葉は14歳で小石川の安藤坂にあった歌塾「萩の舎」に入門し、和歌と古典の勉強に励みました。後に菊坂に引っ越したのには、この塾に通いやすいということもありました。
かねやす (本郷)
享保年間に、口中医師(=歯医者)の兼康祐悦(かねやすゆうえつ)が乳香散という歯磨きを売り始めたのが、この店のはじまりで、小間物屋も兼ねていました。明治の中ごろには樋口一葉も「…かね安にて小間ものをととのう…」と書いているように、ここで買い物をしました。
鐙坂 (本郷)
「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行みんは」など国子にいざなはれて、母君も、「みてこ」などの給ふに、家をば出ぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月さしのぼりぬ。軒ばもつちも、ただ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし」 『蓬生日記』一
右京山 (本郷)
現在は清和公園となっているところは、かつて右京山と呼ばれていました。一葉もここをよく訪れていたようで、日記にそのことが書かれています。
(明治二五年九月)「一八日 晴天。……夕暮より国子と共に散歩(そぞろあるき)をなす。右京山に虫を聞きて、夫(それ)より田町通り、本郷の台にのぼりて、大学前あたりを遊びて帰る」 『につ記』
(明治二六年一月)「二九日 暁より雪降る。……夜いたう更けて、雨だりのおとの聞ゆるは、雪のとくるにやと、ねやの戸をして見出せば、庭もまがきもただしろがねの砂子をしきたるやうにきらきら敷(しく)、見渡しの右京山ただここもとに浮出たらん様にて、夜目ともいはずいとしるく見ゆるは、月に成ぬる成るべし」 『よもぎふにつ記』
(明治二六年五月)「七日 晴天。……此夜、母君と共に右京山に烟火(はなび)見る。九段の祭にて、ここよりよく見ゆればなり」 『蓬生日記』
伊勢屋質店 (本郷)
一葉はこの質屋によく通い、彼女の葬式には店主が香典をもってきたといいます。
「夕刻より着類三つよつもちて、本郷の伊せ屋がもとに
ゆく。4円50銭かり来る」 明治26年8月6日の日記
福山町 (西片)
一葉は晩年を本郷丸山福山町4(現:西片1-17-17)に住み、精力的に小説を書きました。当時、そのあたりは銘酒屋(私娼宿)が多く、一葉は私娼宿の遊女の手紙を代書することもありました。『にごりえ』の舞台はこのあたりがモデルだとされています。(← 一葉終焉の地)